礼拝説教から 2018年9月30日

  • 聖書箇所:マルコの福音書14章43-52節
  • 説教題:イエス様の逮捕劇
 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。(マルコの福音書14章44-46節)
 イエス様を裏切ることになったユダは、イエス様を捕えるために動員された人々と、前もって合図を決めておいたようです。それは、口づけをすることでした。
 私たち日本人にとっては、どの人がイエス様であるかを知らせる合図として、わざわざ口づけをするというのは、とても不自然な感じがすると思います。しかし、当時のユダヤ人たちの間では、むしろ普通のことだったようです。特に律法の教師とその弟子の間では、弟子が「先生」と言って口づけをするのは、挨拶として普通になされていたことだったようです。弟子という立場の人々は、愛と尊敬の思いを込めて、自分の先生に口づけをしたということです。恐らくは、イエス様の弟子たちも、普段からイエス様に対して、「先生」と言って口づけをしていたということになるのだと思います。
 ユダは、どの人がイエス様であるかを知らせる合図として、この口づけを用いました。弟子であるユダは、先生に対する愛と尊敬を込めた挨拶である口づけを用いて、イエス様を裏切ったのでした。
 マルコの福音書を見る限りでは、イエス様はユダの口づけを拒まれたような様子がありません。抵抗された様子がありません。イエス様は、ユダがご自分に近寄って、「先生」と言って口づけするのを、そのまま受け入れられたようです。ユダのなすがままに、ご自分の身を委ねられたようです。
 もちろん、イエス様は、ユダがご自分を裏切ることを、よく知っておられました。ユダが裏切ることを知った上で、顔を背けることなく、抵抗することなく、ユダの口づけを受けてくださったのです。裏切り者のユダに、ご自分の身を委ねてくださったのです。
 私たちはここから何を見ることができるでしょうか。その一つは、イエス様が弟子であるユダを最後まで受け入れてくださった、愛してくださったということではないでしょうか。ご自分の選んだ弟子として、ユダを最後まで受け入れてくださった、その裏切りの口づけをも受け入れてくださった、そうして、ユダを愛してくださったということではないでしょうか。イエス様は、ユダがご自分を裏切ることを知った上で、それでもなお、弟子であるユダを諦めることなく、受け入れ続け、愛し続けてくださったということです。
 ユダが知らなければならなかったのは、このイエス様の愛だったと言えるでしょう。いつ裏切るかも分からないような自分を、そして実際に裏切ってしまった自分を、最後まで受け入れ続けてくださったイエス様の愛です。
 イエス様は私たちを弟子として選んでくださいました。弟子として招いていてくださいます。それは、イエス様が私たちを愛していてくださるということです。私たちを受け入れ続けていてくださるということです。いつ裏切るかも分からないような私たちを受け入れ続け、その私たちにご自分を委ねて切っていてくださるということです。
 私たちを弟子として選んでくださったイエス様の愛を、弟子として招いていてくださるイエス様の愛を、いつも覚えたいと思います。私たちにご自分を委ね切っていてくださるイエス様の愛を覚えたいと思います。そうして、私たちもまた、イエス様を愛し、イエス様に自分を委ねていくことができればと思います。

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