礼拝説教から 2018年9月23日

  • 聖書箇所:マルコの福音書14章32-42節
  • 説教題:祈るイエス様と眠る弟子たち
 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」>(マルコの福音書14章37-38)
 イエス様は、最後の晩餐となった過越の食事の後、弟子たちとともにオリーブ山へ出かけられました。そして、ゲツセマネに到着すると、ペテロとヤコブとヨハネの三人だけを伴って、祈りの時間を持とうとされました。その時、イエス様は深く悩み、もだえ始め、三人に「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」と言われました。
 十字架にかかることは、イエス様にとっても決して簡単なことではありませんでした。それは、イエス様の祈りにも現れています。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
 イエス様は率直に十字架の苦しみから逃れることを願われました。しかし、そうであるにもかかわらず、ご自分の願いではなくて、神様のみこころが実現することを願い、祈られました。そして、この祈りの中で、私たちの救いは実現することになりました。
 イエス様は祈りの後、ペテロたちの所に戻って来られました。すると、どうだったでしょうか。何とペテロたちは眠っていました。イエス様が必死で祈っておられる中で、ペテロたちは眠っていました。
 祈りの前、イエス様はペテロたちに「目を覚ましていなさい」と言っておられました。イエス様は、「眠っていなさい」と言われたのでもなく、「休んでいなさい」と言われたのでもなく、「目を覚ましていなさい」と言われたのでした。イエス様はご自分の祈る姿を見守っているようにと求められたのでした。あるいは、それは、ともに祈っていてほしいという願いだったのかも知れません。祈りによって支えていてほしいという願いだったのかも知れません。ペテロたちは、祈るイエス様を見守り、ともに祈ることを求められていたのでした。
 しかし、そのペテロたちでしたが、イエス様が祈りを終えて戻って来られると、何とぐっすり眠り込んでいたのでした。
 ペテロたちは、眠ろうと思って、眠っていたのではないでしょう。イエス様から言われた通りに、「目を覚ましていよう」、「祈り続けていよう」と思っていたことでしょう。しかし、その思いとは裏腹に、彼らは眠ってしまったのでした。どうしようもない眠気の中で、彼らは眠り込んでしまったのでした。しかも、一度だけでなく、三度も繰り返してしまったのでした。目を覚まして祈り続けなければならない場面で、彼らは徹底的に眠り込んでしまったのでした。
 ペテロたちは必死に祈り続けるイエス様を見守っていることができませんでした。イエス様とともに祈っていることができませんでした。イエス様を背後から支えることができませんでした。
 反対に、ペテロたちは自分たちの弱さを知らなければなりませんでした。自分たちがイエス様を支えるどころか、目を覚ましていることもできない、祈り続けることもできない自分たちの弱さを知らなければなりませんでした。そして、その弱い自分たちを、イエス様が深い悲しみの中にありながら、眠ることなく祈り続けて支えていてくださることを知らなければなりませんでした。
 私たちはすぐに眠り込んでしまうような者かも知れません。祈り続けることのできないような者かも知れません。しかし、イエス様は眠ることなく祈っていてくださいます。そして、イエス様が祈っていてくださるからこそ、弱い私たちは支えられています。目を覚まして祈り続けることのできない私たちが、眠ることなく祈っていてくださるイエス様によって支えられています。
 毎週の礼拝の中で、私たちを支えていてくださるイエス様の祈りを覚えることができればと思います。その祈りに支えられながら、私たちもまた、目を覚まして祈ることができればと思います。そうして、愛する人々が救われるために十字架にかかられたイエス様の働きに用いられていく者でありたいと思います。

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