礼拝説教から 2018年8月12日

  • 聖書箇所:マルコの福音書13章28-37節
  • 説教題:目を覚ましていなさい
 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(マルコの福音書13章31節)
 イエス様は弟子たちに世の終わりのことについて語られました。それは、エルサレムの神殿に目を奪われていた弟子たちのことばがきっかけでした。弟子の中の一人は、エルサレムの神殿を見て、何と素晴らしい石であり建物であろうかと言いました。それは、そのように立派なエルサレムの神殿が崩壊するようなことなどは、決して起こらないという思いの現れでもあったでしょう。弟子たちは、立派なエルサレムの神殿が崩壊するようなことを、想像もしていなかったということです。
 その弟子たちに対して、イエス様はエルサレムの神殿の崩壊とともに、世の終わりのことを語られたのでした。そしてその中で、天地が消え去ると言われたのです。エルサレムの神殿どころか、天地が消え去ると言われたのです。しかし、イエス様は同時に、「わたしのことばは決して消え去らない」と言われたのでした。
 イエス様は「わたしのことば」と言われました。他の誰のことばでもありません。イエス様ご自身のことばです。イエス様は、「わたしのことばは決して消え去らない」と言われたのです。
 私たちはこのイエス様のことばから、何を見ることができるでしょうか。その一つは、イエス様のことばが、何よりも信頼することのできるものであり、拠って立つことのできるものだということではないでしょうか。決して消え去らないイエス様のことばというのは、私たちが信頼することのできるものであり、私たちが拠って立つことのできるものだということです。
 最近、メディアでは、スポーツ界の問題がやたらと取り上げられています。新聞やテレビでそれらのニュースを見ていると、ことばがあまりにも軽々しく用いられているなぁということを感じさせられます。最初は威勢よく「そのような事実はありません」と繰り返していても、最終的には押し通すことができなくて、「申し訳ありませんでした」ということになります。自分のことばを自分で否定しなければならないのです。自分のことばが信頼に足るものでなかったことを認めなければならないのです。
 この世界にはことばが溢れています。世界はたくさんのことばで溢れています。新聞を見ても、テレビを見ても、インターネットを開いても、そこはことばで溢れています。ことば、ことば、ことばの濁流です。
 しかし、その世界に溢れていることばというのは、どうなのでしょうか。そこには美しいことばもあるでしょう。人々の興味を引くようなことばもあるでしょう。人々に感動を与えるようなことばもあるでしょう。しかしそこに、いつまでも残ることばというのは、見つけることができるでしょうか。そしてだからこそ、私たちが信頼することのできることば、拠って立つことのできることばというのは、見つけることができるでしょうか。
 この世界にはことばが溢れています。しかし、本当に信頼することのできることば、私たちが拠って立つことのできることばというのは、一つしかありません。それは、イエス様のことばです。私たちを愛するがゆえに、十字架の上で死に、そして三日目に復活されたイエス様のことばです。死に打ち勝たれたイエス様のことば、この天地が消え去っても、決して消え去ることのないイエス様のことばです。
 このイエス様のことばに耳を傾けたいと思います。このイエス様のことばに拠って立つ者でありたいと思います。いつかは消え去っていくことばの中で、信頼することのできないたくさんのことばの中で、決して消え去ることのない、確かに信頼することのできるイエス様のことばに耳を傾け続けていきたいと思います。

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