礼拝説教から 2018年7月29日

  • 聖書箇所:マルコの福音書13章1-13節
  • 説教題:産みの苦しみの中で耐え忍ぶ
 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。(マルコの福音書13章13節)
 マルコの福音書13章は「小黙示録」という言い方がされたりもするようです。その「小黙示録」の中で、イエス様は、世の終わりに向かっていく中で、弟子たちが、そして私たちが、大きな苦難を受けることになると言われました。しかし、その苦難の中で、「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」と言われました。
 「耐え忍ぶ」というのは、どういうことでしょうか。『広辞苑』で「耐え忍ぶ」を調べると、<つらさや苦しさをこらえる。じっと我慢する。辛抱する。>と説明されています。「耐え忍ぶ」というのは、じっと我慢する、辛抱するということです。そこには、肯定的なイメージはないでしょう。
 しかし、今日の本文で「耐え忍ぶ」と訳されていることばをギリシア語の辞書で調べてみると、そのことばには、「待ち望む」という意味が記されています。そうすると、イエス様が言われた「耐え忍ぶ」ということばは、ただひたすら我慢することではないことになるでしょう。意味もなく、じっと我慢するということではないということです。そうではなくて、望みを抱いて待つということです。望みがあるがゆえに、我慢して待つ、辛抱して待つということです。我慢や辛抱の土台には、望みがあるということです。そして、その望みを実現させてくださるのは、望みを与えてくださったイエス様ご自身だということです。
 世の終わりに向かっていく中で、私たちは様々な苦難を経験します。そこでは忍耐が要求されます。あるいは、苦難の中で耐えることができなくて、倒れたりもすることがあるかも知れません。
 しかし、イエス様が教えてくださっているのは何でしょうか。それは、その苦難の中で、苦難の先にある望みを見ることです。望みを与えてくださり、望みを実現させてくださるイエス様を見つめることです。そうして、その望みの土台の上で耐え忍ぶことです。
 私たちの前には、どのような苦難があるでしょうか。イエス様が与えてくださり、実現させてくださる望みを見つめながら、あるいは、イエス様ご自身を見つめながら、最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。そうして、イエス様が成し遂げてくださる救いの完成に与りたいと思います。

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