礼拝説教から 2018年7月22日

  • 聖書箇所:マルコの福音書12章38-44節
  • 説教題:誰のまなざしの中に
 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(マルコの福音書12章42-43節)
 イエス様は、エルサレムの神殿で、人々がお金を献金箱に投げ入れる様子を見ておられました。
 そこに、夫に先立たれた一人の貧しい女性が来ました。そして、レプタ銅貨二枚を投げ入れました。二枚のレプタ銅貨、それは取るに足らない金額です。
 イエス様は女性が、「乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れた」と言われました。二枚のレプタ銅貨、それは女性にとって、「持っているすべて」、「生きる手立てのすべて」でした。
 ここで「乏しい」と訳されていることばは、欠乏を意味しているそうです。欠乏そのものを意味していることばだそうです。それは、「わずかではあるけれども、プラスの財産がある」ということではありません。「非常に苦しい状態ではあるけれども、何とか自立している」ということではありません。それは、必要なものが欠けているということです。足りないということです。自立していないということです。自分の力では生きていくことができないということです。女性はそのような乏しさの中で、「持っているすべて」、「生きる手立てのすべて」をささげたということです。
 つまり、どういうことでしょうか。それは、女性が、自分を支えているのは自分自身ではなくて、神様であることを認めていたということではないでしょうか。そしてその上で、神様を信頼して、自分のすべてを委ねたということではないでしょうか。自分のいのちそのものを委ねたということではないでしょうか。
 イエス様が評価されたのは、女性が他の人々よりも、高いパーセントのお金をささげたということではありません。そうではなくて、神様を信頼したということです。神様を信頼して、自分のすべてを委ねたということです。
 イエス様は私たちに、収入のすべてを献金しなさいと求めておられるのではありません。そうではなくて、人生そのものを、いのちそのものを、ご自分に委ねることを求めておられます。私たちがイエス様を信頼して、自分のすべてをイエス様に委ねることを求めておられます。献金は、その神様に対する信頼の中で、なされるものだと言えるでしょう。
 私たちは欠乏の中にあります。それは、自分の力では補うことのできないものです。イエス様でなければ、満たされることのできないものです。
 この欠乏の中にある自分というものを覚えたいと思います。そして、欠乏の中にあるからこそ、満たしてくださる方に、委ねたいと思います。
 イエス様は、十字架の愛によって、すべてを満たしてくださいます。

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