礼拝説教から 2018年6月3日

2018年6月3日
マルコの福音書11章15-25節
山が動く信仰の祈り
 まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。(マルコの福音書11章23節)
 イエス様は、「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」と言われました。
 山というのは何でしょうか。それは、動かないものです。私たちの力によっては、決して動かすことのできないものです。イエス様は、その山が動くのだと言われました。
 「人生は山あり谷あり」と言いますが、人生の行く手を阻んでいる具体的な何かを、「山」と表現することができるかも知れません。前に進みたいのだけれども、その歩みを妨げている障害物のようなものです。
 それは、人と人との関係の中で、立ちはだかっているものであるかも知れません。かつて経験した痛みや悲しみ、苦しみが、ずっと山のように立ちはだかっているかも知れません。あるいは、どうしても解決することのできない罪の問題が、心の中で山のようにどかっと腰を下ろしているかも知れません。
 私たちには、多かれ少なかれ、高いものであれ低いものであれ、人生の行く手を阻んでいる山があるのだと言えるでしょう。しかし、その山が祈りの中で動くのだと、イエス様は言われるのです。これ以上進むことができない、決して乗り越えることができないと思われた現実の中に、道が開かれるのです。立ちはだかっていた山が動いて、道が開かれるのです。
 それは、私たちの祈りそのものが、山をも動かす力を持っているということではありません。あるいは、神様が私たちの熱心な信仰の祈りに感動をされて、山を動かしてくださるということでもないでしょう。
 そうではなくて、それは、私たちが、神様から与えられた信仰を持って祈る中で、すでに山を動かしていてくださる神様と出会うことであり、その神様の恵みを経験することだと言えるでしょう。
 神様は私たちに必要なものを最初からよく知っていてくださいます。そして、知っていてくださるだけではなくて、その必要なものをあらかじめ備えていてくださいます。向き合いたくない人との関係に向き合う力を与えてくださっています。乗り越えられないと思っていた痛みや悲しみ、苦しみに向き合う力を備えていてくださいます。さらには、どうすることもできない罪の問題について、すでに赦しを備えていてくださり、新しく生きる道を備えていてくださいます。
 祈りというのは、神様がすでに山を動かしていてくださり、道を開いていてくださる方であることを信じることであり、その神様が備えていてくださる恵みを受け取っていくために、神様ご自身が私たちに与えていてくださる手段だと言ってもいいのかも知れません。まず神様の恵みがあり、神様の働きがあり、私たちは祈ることによって、その神様の恵みや働きに与ることができるのです。
 大切なことは、神様を信じて祈ることです。人生の行く手に立ちはだかる山の前で、立ち止まってしまう私たちに、あるいは自分の力で山を越えようとする私たちに、神様がすでに山を動かしていてくださり、道を開いていてくださることを、信じて祈ることです。

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