礼拝説教から 2018年5月27日

2018年5月27日
マルコの福音書11章12-19節
「あらゆる民の祈りの家」であるために
 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」(マルコの福音書11章17節)
 エルサレムに入られたイエス様が、その神殿の境内で目撃したのは、礼拝に必要な物の売り買いがなされていたり、献金する貨幣の両替がなされたりしている光景でした。また、神殿の境内を通って、物を運んだりする人々もいたようです。
 イエス様は、神殿の境内で、売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る人々の腰掛けを倒されました。また、神殿の境内を通って物を運ぶことを禁じられました。しばしば「宮きよめ」と呼ばれる出来事です。
 そこには、「神様を礼拝する場所である神殿の境内で、商売がなされるとは、何とけしからんことか」という思いがあったことでしょう。しかし、イエス様がその直後に、人々に教えるために引用されたイザヤ書56章7節のことばを見る時、イエス様はただ単に「礼拝の場所」が「商売の場所」と化してしまったことに対して、お怒りになったというだけのことではないように思います。
 イエス様が「わたしの家」と呼ばれるエルサレムの神殿というのは、「あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」とされています。ただ単に、「祈りの家」、「祈りに集中するべき場所」だというのではなくて、「あらゆる民の祈りの家」だということです。ユダヤの人々だけではなくて、「あらゆる民」に開かれている「祈りの家」だということです。
 実は、いわゆる「宮きよめ」が行われたのは、「異邦人の庭」と呼ばれる場所であったと考えられています。外国の人々が神様を礼拝する場所です。つまり、ユダヤの人々は、外国の人々が神様を礼拝する場所で、自分たちの礼拝の便宜を図るために、物の売り買いなどをしていたということです。
 そうすると、どういうことになるでしょうか。それは、ユダヤの人々が、一方で、神様を熱心に礼拝していながら、他方で、同じ神様を信じる外国の人々の礼拝を踏みにじっていたということになるのではないでしょうか。ユダヤの人々は、外国の人々もまた、神様によって招かれた兄弟姉妹であり、神様を信じる兄弟姉妹であり、その外国の兄弟姉妹たちのために、礼拝の場を整えようなどということを、まったく気にも留めていなかったということです。ユダヤの人々は、外国の人々が神様を礼拝する場所や権利を奪っていたということです。
 神様を礼拝する、神様を礼拝する民の中に加えられるというのは、神様を愛し、神様の方を向き続けていくと同時に、同じ神様を信じる人々にも、愛の目を向けていくということなのではないかと思います。神様のしもべとなり、神様に仕えていくと同時に、同じ神様を信じる人々に対しても、しもべとなり、仕えていくということです。
 もちろん、同じ神様を信じているからと言って、誰とでも仲良くなることができる、上手くやっていくことができるというわけではありません。性格や考え方の合わない人もいれば、共通の話題がまったくないというような人もいるでしょう。
 しかし、どの人も、イエス様によって愛され、招かれた人です。イエス様が受け入れてほしいと願っておられる人です。その事実を覚えながら、互いに受け入れ合っていきたいのです。それぞれがイエス様の愛によって、神様との正しい関係の中を生きることができるように、互いに祈り合い、支え合っていきたいのです。
 いつもイエス様の十字架の前を見上げたいと思います。神様を愛し、十字架によって赦された互いに目を向け、受け入れ合い、支え合っていくことができればと思います。そうして、教会が「あらゆる民の祈りの家」であることができればと思います。

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