礼拝説教から 2018年5月20日

2018年5月20日
コリント人への手紙第一12章1-11節
御霊の賜物
 ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(コリント人への手紙第一12章2-3節)
 「イエスは主です」、これはとても素晴らしい信仰告白です。パウロによれば、この信仰告白は、聖霊によるのでなければ、誰にもできないということになります。私たちは、聖霊によって初めて、「イエスは主です」と告白することができるのだということです。信仰は、私たちの努力によって得るものではなく、聖霊によって、賜物として与えられるものだということが分かります。
 それでは、この「イエス様は主です」というのは、どういうことなのでしょうか。私たちは「イエスは主です」と告白することによって、何を言っているのでしょうか。
 そのことの一つは、私たちが主イエス様のしもべだということでしょう。私たちは「イエスは主です」と告白することによって、自分がその主イエス様のしもべであることを覚え、主イエス様のしもべとして生きることを明らかにしているのです。
 「主」に対する「しもべ」と言うと、旧約聖書に登場する代表的な預言者の一人、サムエルを思い浮かべます。サムエル記第一3章10節を見てみましょう。<主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。> 少年サムエルは、主から語りかけられた時、自分のことを「しもべ」と言いました。そして、「お話ください。しもべは聞いております」と言いました。
 しもべというのは、主のことばを聞く者です。主が語られるのを待ち、語られる主のことばを聞く者です。「イエスは主です」と告白するというのは、まさにこの「主が語られ、しもべが聞く」という関係の中に生きるということではないでしょうか。主イエス様が語られ、しもべである私たちが聞くという関係の中に生きること、これが「イエスは主です」という信仰告白に生きることなのではないかと思います。
 そして、このような主に対するしもべの態度は、「ものを言えない偶像」の前に立つ人の態度とは、正反対になるのではないかと思います。
 「ものを言えない偶像」の前に立つ時、私たちはどうすることになるでしょうか。それは、偶像が「ものを言えない」以上、私たちの方から語りかけるしかないということになるのではないでしょうか。偶像が「ものを言えない」以上、私たちの方から語りかけるしかないのです。
 そして、山上の説教におけるイエス様の祈りに関する教えを見る時、偶像に語りかける私たちのことばは、どんどん多くなっていくということが言えるのかも知れません。マタイの福音書6章7節です。<また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。> 
 人の手によって造られた偶像は、何も語りません。その偶像の前に立つ時、私たちは自分の方から語りかけなければなりません。
 しかし、この全宇宙を造られ、私たちを造られた主なる神様は、私たちに語りかけてくださる方です。聖霊によって、私たちに与えられた信仰の歩みは、この語りかけてくださる主なる神様、主イエス様のことばを静かに聞くことから始まるのです。
 私たちはどうでしょうか。「イエスは主です」という告白の通りに、主イエス様のしもべとして、主イエス様のことばを静かに聞くことができているでしょうか。あるいは、聞くのではなくて、語ることばかりに夢中になっているということはないでしょうか。そうして、主イエス様を「ものを言えない偶像」のようにしてしまっているということはないでしょうか。
 「イエスは主です」、聖霊によって与えられたこの素晴らしい信仰告白の通りに、しもべとして、主イエス様のことばを静かに聞き続ける者でありたいと思います。

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