礼拝説教から 2018年5月13日

2018年5月13日
マルコの福音書11章1-11節
イエス様のエルサレム入城
 それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」(マルコの福音書11章7-10節)
 イエス様はエルサレムに入られる時、子どものろばに乗られました。それは、イエス様がまことの王としてエルサレムに入ろうとしておられることを意味していました。そして、そのイエス様のエルサレム入城の時、イエス様に従って来た人々は、自分の上着や葉の付いた枝を敷いて、まことの王が通る道を準備しました。
 しかし、エルサレムにいる人々は、まことの王であるイエス様を出迎えようとはしませんでした。エルサレムの人々は、イエス様がまことの王であることを受け入れず、イエス様の支配を拒んだのでした。
 イエス様は、ご自分を拒む人々のいるエルサレムに入る時、子どものろばに乗られました。大きくて立派な馬ではなくて、小さな子どものろばに乗られました。相手を倒し、相手を支配する戦いの中で用いられる馬ではなくて、戦いには何の役にも立たない子どものろばに乗られました。
 なぜなら、イエス様がことの王としてエルサレムに入られたのは、ご自分に敵対し、ご自分の支配を拒む人々を倒すためではなかったからです。ご自分に逆らう罪人たちを、より大きな力によって、成敗するためではなかったからです。そうして、世界中の人々に、ご自分の力を見せつけて、その支配を確立させようとされたのではなかったからです。
 ゼカリヤ書9章9節に、子どものろばに乗ってくるまことの王は、「柔和な者」だと記されています。まことの王としてエルサレムに入られたイエス様は、柔和な方でした。
 イエス様は、どうしてご自分を拒む人々を前にして、柔和でいることができたのでしょうか。それは、イエス様がご自分を拒む人々を完全に受け入れておられたからではないでしょうか。愛する人々として、赦し、受け入れておられたからではないでしょうか。そして、だからこそ、ご自分を拒む人々の罪が赦されるために、十字架にかかってくださったのではないでしょうか。
 私たちは、エルサレムの人々と同じように、まことの王であるイエス様を拒む罪人です。自分が自分の王となって、自分の思いの通りに生きようとする罪人です。
 しかし、まことの王としてエルサレムに入られたイエス様は、そうして、ご自分を拒む人々を愛するがゆえに、十字架にかかられたイエス様は、私たちの心と人生の中にも入って来ることを願っておられます。
 イエス様を信じるというのは、このイエス様をまことの王としてお迎えすることに他なりません。私たち自身が自分の王として君臨することを止めて、自分の座っている王座を、イエス様に明け渡すことです。自分の座っている王座に、イエス様に座っていただくことです。そうして、まことの王であるイエス様の支配を受け入れて、受け入れ続けて、イエス様に人生を導いていただくのです。自分が自分の王となって、自分で自分を支えて生きるのではなくて、私たち自身よりも私たちのことをよく知っていてくださり、深く愛していてくださるイエス様に支えられて、導かれて生きるのです。
 それは、何か難しい問題にぶつかった時にだけ、イエス様に助けを求めるような生き方ではありません。考え方においても、具体的な日々の歩みにおいても、人生のすべてにおいて、イエス様の支配を受け入れ続けていくことです。イエス様の導きの中で、変えられることを受け入れ続けていくことです。
 イエス様はまことの王として来られました。私たちのまことの王となることを願っておられます。人生の一部分においてではなく、すべてのおいて、王となることを願っておられます。
 すべてをイエス様に明け渡して、イエス様に人生を導いていただくことができればと思います。

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