礼拝説教から 2018年3月18日

2018年3月18日
マルコの福音書10章1-12節
神の結び合わせたもの
 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」(マルコの福音書10章5-9節)
 パリサイ人たちはイエス様に、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問しました。それに対して、イエス様は逆に、モーセがどのように命じているかを質問され、パリサイ人たちは、モーセが離縁状を書いて妻を離縁することを許していると答えました。パリサイ人たちは、夫が妻を離縁することを、夫の側に与えられている当然の権利ででもあるかのように、受け取っていたようです。そのパリサイ人たちに、イエス様は言われました。それは、「あなたがたの心が頑なだ」ということでした。
 パリサイ人たちが、神様のことばである律法の前で見つめなければならなかったことは、何でしょうか。それは離縁が許されるかどうかということではありませんでした。それは他でもなく、自分たちの頑なさでした。離縁という結果を招いてしまう自分たちの頑なさでした。
 イエス様は、「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」と言われました。結婚した夫婦というのは、神様が結び合わせてくださったものだということです。その神様の結び合わせてくださったものを、人が引き離してはならないということです。離婚は神様のみこころではないのです。
 しかし、私たちの現実はどうでしょうか。残念なことに離婚ということが実際に起こっています。あるいは離婚という形をとっていないとしても、夫婦の関係がどうすることもできない状態になってしまうことは、しばしば起こってくるのです。
 離婚というのは苦しい選択です。痛みを伴うものであり、傷を残すものです。誰も好き好んで離婚をする人はいません。離婚を前提にして結婚をする人はいません。誰もが幸せな生活、祝福に満たされた生活を期待して、結婚をするのです。そしてそれは、イエス様の願いでもあります。
 イエス様が願っておられるのは、私たちの幸せな結婚生活です。私たちが、自分たち夫婦を結び合わせてくださった神様に感謝しながら、互いに愛し合い、仕え合っていくことです 
 しかし、イエス様は同時に、私たちが頑なであることを、よく知っておられます。その頑なさのゆえに、私たちが互いに愛し合い、仕え合うのではなく、互いに傷つけ合い、離婚という結果をも招いてしまうことがあることを理解しておられます。「富める時も、貧しき時も」と互いに誓い合ったにもかかわらず、互いに赦し合い、受け入れ合うことのできない私たちの頑なさを丸ごと受け止めていてくださいます。
 そしてだからこそ、イエス様は頑なな私たちのために、十字架にかかってくださいました。私たちがいつまでも頑なになって、互いに傷つけ合うのではなく、砕かれて、互いに赦し合い、仕え合うために、十字架にかかってくださったのです。
 大切なこと何でしょうか。それは、イエス様の十字架の前で自分の頑なさを見つめることです。イエス様の十字架の前で、その頑なさが砕かれることです。そうして、夫婦という関係において、あるいはすべての人と人との関係において、互いに赦し合い、仕え合っていくことです。
 いつも、十字架にかかってくださったイエス様の前で、自分の頑なさを認め、砕かれたいと思います。そうして、神様が結び合わせてくださった夫婦の関係、様々な関係を大切にしていきたいと思います。

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