礼拝説教から 2018年3月11日

2018年3月11日
マルコの福音書9章42-50節
いのちに入ることこそが
 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。(マルコの福音書9章43、45、47節)
 イエス様は、自分自身をつまずかせるものであるならば、たとえそれが手であっても、足であっても、目であっても捨ててしまいなさいと言われています。なぜなら、両手、両足、両目がそろっているままで、「ゲヘナ」に投げ込まれるよりも、片手、片足、片目でいのちに入る、つまり神の国に入るほうが良いからだということです。
 ちなみに、「ゲヘナ」というのは、新改訳(第三版)の「あとがき」を見ると、「神の究極のさばきにより、罪人が入れられる苦しみの場所」と説明されています。つまり、罪人が神様のさばきを受ける所だということです。
 手も足も目も、私たちにとってはとても大切なものです。簡単に捨てられるものではありません。しかし、イエス様はその手や足や目が自分自身をつまずかせるものとなるならば、いっそのこと捨ててしまいなさいと言われているのです。実に厳しい教えです。私たちはイエス様のこのような厳しい教えを聞かされる時、恐れおののかざるをえません。
 しかし、だからと言って、イエス様は私たちが実際に手や足や目を捨ててしまうことを命じられたのではありません。そんなことを文字通りに実行してしまうならば、罪人である私たちは全員が手や足や目を失ってしまうことになるでしょう。より正確に言うならば、私たちが失うことになるのは、片手や片足や片目では済まないことになります。私たちは全身を失ってしまいます。「いのちに入る」どころか、いのちそのものを失ってしまいます。
 そうすると、私たちはどうすればいいのでしょうか。それは、手や足や目を捨ててでも、「神の国に入るぞ、エイエイヤー」と、気合を入れることではないでしょう。あるいは、手や足や目がつまずきを引き起こすことのないように、片時も油断することなく、ものすごい注意を払い続けようということでもないでしょう。
 そうではなくて、それは、私たちが手や足や目を失わなくても、神の国に入ることのできるように、イエス様がゲヘナの火の中にご自分の身を置いてくださった恵みを受け入れ続けていくことではないでしょうか。本来なら、罪人の私たちが落ちなければならなかったゲヘナに、御子イエス様が代わりに身を置いてくださって、私たちの代わりに、父なる神様のさばきを受けてくださった恵みを受け入れ続けていくことではないでしょうか。御子イエス様が父なる神様のさばきを受けてくださったことによって、罪人の私たちに、神の国に入る道を、しかも手も足も目も失うことなく入ることのできる道を開いてくださったことを、感謝し喜ぶことではないでしょうか。
 私たちにとって最も良いこと、それは神の国のいのちに与ることです。それは、イエス様が私たちを愛していてくださることを知り、そのイエス様が王であることを受け入れ、イエス様の支配を受け入れ、イエス様に支えられて生きることです。そして、この私たちにとって最も良いことのために、御子イエス様はゲヘナの中で父なる神様のさばきを受けてくださったのです。
 私たちは何を良いこととして生きているでしょうか。何よりも、イエス様が王として支配されている神の国で、イエス様とともに、イエス様に支えられて生きることを心から願います。

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