礼拝説教から 2018年2月25日

2018年2月25日
マルコの福音書9章30-37節
みなのしんがりとなり、みなに仕える
 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」(マルコの福音書9章34-35節)
 イエス様は、エルサレムへと向かう道の中で、弟子たちに「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし殺されて、三日後によみがえる」と教えておられました。しかし、このイエス様のことばを十分に理解できなかった弟子たちは、同じその道の中で、「だれが一番偉いか」ということを論じ合っていました。弟子たちの関心事は、一番偉くなることだったようです。
 そんな弟子たちにイエス様は言われました。「だれでも、先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
 「先頭に立ちたいと思うなら」ということばを見ると、何だか先頭に立つ方法が教えられているように感じられます。あるいは、「皆の後になり、皆に仕える者になる」ことこそが、本当の意味で「先頭に立つ」ことなのだというようなことが教えられているようにも感じられます。
 しかし、どうなのでしょうか。もし、「皆の後となり、皆に仕える者となる」ことが、「先頭に立つ」手段として教えられているのであったり、「本当の意味で先頭に立つことなのだ」という意味で教えられているのだと、理解するとしたら、それは結局の所、「先頭に立ちたい」という思いが形を変えて現れているだけに過ぎないのではないでしょうか。どのような方法であるにしろ、先頭に立とうとしていることには、何の変わりもないわけです。
 イエス様が教えておられるのは、むしろ先頭に立とうとすること自体が、偉くなろうとすること自体が目的になってはならないということではないでしょうか。「皆の後になる」、「皆に仕える」ということ自体を目的にするということではないでしょうか。
 弟子たちは「だれが一番偉いか論じ合っていた」と記されています。それは、弟子たちがどういうことを論じ合っていたということなのでしょうか。恐らくは、「誰が一番お金を持っているか」、「誰の家柄が一番立派か」というような方向の議論ではなかったでしょう。財産や家柄のようなものを基準にして、「偉い、偉くない」を論じ合っていたのではないのだと思います。
 それはむしろ、「誰が一番イエス様にしっかりと仕えているか」というような方向の議論だったのではないかと想像します。あるいは、もっと露骨に、「誰が一番イエス様の役に立っているか」というような議論だったのかも知れません。つまり、イエス様の弟子として、一番になろうとしていた、一番偉くなろうとしていたということではなかったかということです。
 もちろん、イエス様の弟子として忠実であろうとすること、これが否定されてはいけないでしょう。それは本当に大切なことです。しかし、そのこと自体を目的とするのではなく、手段としてしまう時、そこに優劣や順位をつけようとしてしまう時、そこにはあるのは平和ではなく、争いです。
 後に、ヤコブとヨハネが「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」とイエス様に願ったことを、他の弟子たちが知った時、彼らは腹を立てました。そして、イエス様は改めて、「偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」、「先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」と教えておられます。
 イエス様は仕えてくださいました。罪人の私たちのために仕えてくださいました。このイエス様を見上げながら、仕えること自体を目的として歩むことができればと思います。

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