礼拝説教から 2018年2月18日

2018年2月18日
マルコの福音書9章14-29節
不信仰な私をお助けください
 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでください。」イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコの福音書9章22-24)
 「口をきけなくする霊につかれた」子どもの父親は、イエス様の力を「信じる」ことができなくて、「おできになるなら」と言いました。それに対して、イエス様は「信じる者には、どんなことでもできる」と言われました。このイエス様のことばを聞いて、父親は「信じる」と言いました。
 「信じます」、これは信仰の告白です。しかし、その後に言っていることは何でしょうか。それは、「不信仰な私」です。父親は、「信じる」と言っておきながら、「不信仰な私」と言い、その「不信仰な私をお助けください」と言っているのです。
 父親は、「信じる」と言った時、自分の中に信仰を見つけることができませんでした。「信じる」と言った父親は、信じ切れていない自分を告白することしかありませんでした。そして、自分の信仰を根拠にして助けを求めるのではなく、不信仰な自分を助けてほしいと、あわれみを願うしかありませんでした。その不信仰な父親の願いを、イエス様は聞いてくださいました。不信仰な父親の信仰告白を受け入れて、彼とその子どもを助けてくださいました。
 イエス様が求めておられることは何でしょうか。それは、私たちがイエス様を「信じる」ことです。信じないことではなく、「信じる」ことです。
 しかし、この「信じる」というのは、一点の曇りもなく信じているということを告白するものではありません。「信じていますから、どうぞ助けてください、願いを聞いてください」と、自信たっぷりに言うことではありません。もし、そうであるならば、私たちは誰一人として、「信じる」と告白することができなくなります。私たちは、「口をきけなくする霊につかれた」子どもの父親と同じように、「信じる」と告白する自分の中に、不信仰を見いださざるをえないような者だからです。
 大切なことは何でしょうか。それは、どんなことがあってもぐらつくことのない、倒れることのない固い信仰を獲得することではありません。そうではなくて、「信じる」と言っておきながら、信じ切れていない自分の信仰を支えていてくださるイエス様を知ることです。不確かな者であるからこそ、倒れやすい者であるからこそ、確かな方であり、あわれみ深い方であるイエス様を信じて、そのイエス様に依り頼むことです。
 確かな信仰とは、不確かな自分ではなくて、確かな方であるイエス様にこそ、その根拠の置かれるものだと言えるでよう。
 「不信仰な私をお助けください」、この信仰告白をいつも自分の信仰告白としながら、イエス様に支えられて歩みたいと思います。

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