2018年1月7日 |
マルコの福音書8章1-21節 |
七つのパンの奇跡から |
すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。(マルコの福音書8章11節)
パリサイ人たちはイエス様に対して「天からのしるし」を求めました。それは、イエス様が天におられる神様から遣わされた者であることの証拠となるような奇跡だと言えるでしょう。「人々があっと言うような奇跡を見せてみろ。そうしたら、あなたが神様から遣わされた者であることを認めてやる。」とでも言っているようなものです。
しかし、どうなのでしょうか。パリサイ人たちは何か「天からのしるし」と言えるようなものを見たら、それでイエス様を信じたのでしょうか。そうではないのだと思います。
パリサイ人たちはすでにイエス様の奇跡を何度も目にしていたのではないでしょうか。イエス様が、誰にもどうすることもできなかった病人を癒し、悪霊につかれていた人から悪霊を追い出されたのを、パリサイ人たちはすでに目にしていたはずです。そうであるにもかかわらず、そのイエス様の力を、神様からのものとして受け入れることができなくて、無理やりに悪魔からのもの見なしていたのではないでしょうか。
「天からのしるし」、証拠となる奇跡を見ること、これは私たちがイエス様を信じるにあたって、イエス様に従い続けていくにあたって、助けとなることはあっても、決定的に大切なことではありません。大切なことは、「天からのしるし」を見ることではないということです。
本当に大切なことは何でしょうか。それは、イエス様との出会いと交わりの中で、イエス様がどのような方であるかを知ることではないでしょうか。イエス様がどれほど私たちを愛してくださっているのかを知ることではないでしょうか。その愛を、十字架によって示してくださっていることを、いつも信じて受け入れ続けていくこと、そうして、そのイエス様の十字架の前に立ち続け、イエス様の愛に支えられていくことではないでしょうか。
私たちもまた「天からのしるし」のようなものを求めてしまっていることはないでしょうか。様々な課題や問題に直面する中で、イエス様の十字架の愛を見失い、イエス様の十字架では納得することができなくて、何か他の「しるし」を求めてしまっていることはないでしょうか。
大切なことは、自分の納得する「しるし」を見ることではありません。そうではなくて、自分の納得する「しるし」を見ることができようができまいが、変わることのないイエス様の十字架の愛を受け入れ続けていくことです。
むしろ、イエス様の十字架の前に立ち続け、その愛の広さ深さを知れば知るほどに、私たちは何か他の「しるし」を求めるということから解放されることになるでしょう。ただ、十字架の愛に満足し、喜びと感謝をもって、謙遜に生きることができるのです。
いつもイエス様の十字架の前で、罪人の自分が赦され、生かされ、愛されていることを信じ受け入れ続けていくことができればと思います。