礼拝説教から 2017年12月24日

2017年12月24日
ルカの福音書2章1-7節
赤ちゃんのイエス様
 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカの福音書2章6-7節)
 イエス様は赤ちゃんとしてこの世界に生まれてこられました。イエス様は最初から大人としてどこかに出現されたというのではなく、赤ちゃんとしてこの世界に生まれてこられました。これは実に不思議なことではないでしょうか。
 赤ちゃんというのは、とても小さくて弱い存在です。生まれて何ヶ月かは、首がだらんとしていて、抱っこするのも気をつけなければなりません。
 そんな赤ちゃんですから、できることは何もありません。自分で食べることもできません。おしっこやうんちの処理も自分ではできません。話すこともできません。立ち上がることなんて、もちろんできません。
 赤ちゃんは何もできない存在です。とても無力な存在です。自分一人では生きていくことのできない存在です。
 イエス様はそのような赤ちゃんとして、私たちのこの世界にお生まれになりました。最初から何もかもできる大人として、この世界に来られたのではなく、何もできない赤ちゃんとして生まれてこられました。
 これはどういうことでしょうか。それは、イエス様がご自分を世界の人々に、そして私たちに委ねてくださったということではないでしょうか。イエス様がご自分のいのちを、世界の人々に、そして私たちに委ねてくださったということではないでしょうか。
 クリスマス、それは、イエス様がご自分を、ご自分のいのちを、この世界の人々に、そして私たちに委ねてくださった出来事だということです。
 赤ちゃんは無力です。しかし、ただ無力なだけではありません。無力であるからこそ、同時にものすごい力を持っています。それは、自分に責任のある立場の人々、つまり親や家族を動かす力を持っているということです。赤ちゃんそのものはとても無力な存在に過ぎませんが、同時に周りの人々を動かす力を持っているということです。
 赤ちゃんを迎えるというのは、どういうことでしょうか。それは、親を始めとして、赤ちゃんに責任を持つ人が変わらなければならないということです。誕生した赤ちゃんの生活に合わせて、自分の生活が変えられることを受け入れ続けていくということです。その生活が赤ちゃんを中心としたものに変えられることを受け入れ続けていくということです。そして、この赤ちゃんのために、自分の生活が変えられることを喜んで受け入れていく時、そこには喜びがあります。家族としてともに生きる喜びがあります。
 クリスマスを迎えるということも、実は似たような所があるのではないかと思います。
 クリスマスというのは、イエス様が赤ちゃんとしてこの世界にお生まれになった出来事です。イエス様がご自分のいのちを私たちに委ねてくださった出来事です。私たちを愛して、私たちを信頼して、ご自分のいのちを私たちに委ねてくださった出来事です。イエス様が家族として私たちとともに生きることを願われて、私たちにご自分のいのちを委ねられた出来事です。
 イエス様の生涯は三十年ちょっとであったと考えられます。それは、イエス様も大人になられたということを意味しています。ずっと赤ちゃんだったわけではないということを意味しています。
 しかし、イエス様のその生涯を最後まで辿っていく時、イエス様はずっと赤ちゃんのままでおられたんだなぁということを、感じさせられます。それは、いつまでも周りの大人たちを微笑ませるような天真爛漫な姿をしておられたということではありません。そうではなくて、赤ちゃんのように、ご自分を周りの人々に最後まで委ね続けてくださったということです。大人としての力を持っているにもかかわらず、そして神としての力を持っているにもかかわらず、何もできない赤ちゃんのように、最後までご自分を人々に委ね続けてくださったということです。
 そうして、イエス様は罪人として、十字架につけられることになりました。イエス様によって変えられることを拒む人々の手によって、イエス様は罪人として十字架につけられることになりました。イエス様は、ご自分によって変えられることを拒む人々に、そして私たちに、ご自分のいのちを与えてくださったのです。そうして、私たちがそのいのちによって生かされる道を開いてくださいました。クリスマスは十字架の死にそのままつながっていたのです。
 このクリスマスを私たちが迎えるということ、それは、私たちもまた赤ちゃんのイエス様とともに生きるように招かれているということです。私たちが赤ちゃんのイエス様を迎え入れて、家族として赤ちゃんのイエス様とともに生きるように招かれているということです。
 それは、私たちの人生がこの赤ちゃんのイエス様によって変えられることを意味しています。イエス様中心の人生に変えられることを意味しています。それはもしかしたら、私たちが望むような人生とは異なるかも知れません。私たちの願い、私たちの夢がかなうような人生ではないかも知れません。
 しかし、それは私たちが考えている以上に、私たちが望んでいる以上に、素晴らしい人生です。なぜなら、それは私たちを愛し、私たちを信頼し、私たちにご自分を委ねてくださった方のいのちによって生かされる人生だからです。いついかなる時も、ご自分のいのちを与えてくださったイエス様の愛に支えられて歩むことのできる人生だからです。
 赤ちゃんのイエス様は私たちにご自分のいのちを与えてくださいました。そのいのちによって生かされる道を開いてくださいました。
 クリスマスを祝う一人一人が、赤ちゃんのイエス様を迎え入れ、家族として赤ちゃんのイエス様とともに歩まれることを心から願います。ご自分のいのちを与えてくださったイエス様の愛を知り、その愛に支えられて、新しい人生を歩まれることを心から願います。

 

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