礼拝説教から 2020年7月12日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙3章1-8節
  • 説教題:神様の真実

 では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。↩ 「それゆえ、あなたが告げるとき、↩ あなたは正しくあられ、↩ さばくとき、勝利を得られます」↩ と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙3章3-4節)

 私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。↩ 私はあなたの目に 悪であることを行いました。↩ ですから あなたが宣告するとき あなたは正しく↩ さばくとき あなたは清くあられます。(詩篇51篇4節)

0.はじめに

 今日は、礼拝の中で、洗礼式を執り行いました。洗礼を受けた後、目に見えて変わることの一つは、聖餐式の時にパンと杯を受け取ることができるようになることです。その聖餐式が、新型コロナウィルスの影響で、現在は執り行うことができていません。それは、以前からの教会員にとってだけでなく、新しく教会のメンバーに加えられた姉妹にとっても、とても残念なことですが、再開の時を期待しながら、今は御言葉のパンを共に味わっていきたいと思います。

 1月からローマ人への手紙を見ていますが、今日から3章に入ります。

1.

 今日は説教題を「神様の真実」とさせていただきました。神様は真実な方であるということです。

 真実というのは、どういうことでしょうか。それは、嘘偽りがないということです。神様が真実な方であるというのは、神様には嘘偽りがないということです。「たとえすべての人が偽り者であるとしても」、神様は嘘偽りがない方であるということです。そして、その神様の真実は、私たちに安心をもたらします。平安をもたらします。嘘偽りのない神様との関係の中にある時、私たちは安心していられるということです。そして、その真実な神様が私たちを愛していてくださる、それが聖書全体のメッセージということになります。何と素晴らしいことではないでしょうか。

 私たちの人間関係はどうでしょうか。夫婦の関係、親子関係、兄弟関係、学校や職場での関係、地域社会での関係、そして、教会での関係はどうでしょうか。安心があるでしょうか。平安があるでしょうか。誰も信じられない現実の中で、片時も安心することができないということはないでしょうか。この人だけは嘘をつかない、裏切らないと信じていたのに、騙された、裏切られたという経験はないでしょうか。あるいは、自分自身が嘘偽りで満たされていることはないでしょうか。

 神様は真実な方です。嘘偽りのない方です。そして、その神様の真実は、私たちに安心をもたらします。平安をもたらします。

 しかし、今日の本文に描かれているのは、どういうことでしょうか。それは、その神様の真実を利用して、自分たちの不真実、自分たちの嘘偽りを正当化しようとしているユダヤ人たちの姿です。そして、それは、ユダヤ人たちだけに当てはまることではなくて、私たちすべてに当てはまることです。

 先週の本文になりますが、パウロは、律法を持っていることと、割礼を受けていることを誇っていたユダヤ人たちに対して、とても厳しいことを言っていました。それは、ユダヤ人たちが、律法を誇りとしながら、律法に違反している、律法に違反しているなら、割礼には何の意味もないということでした。

 律法というのは何でしょうか。それは神様の言葉です。私たちを愛する神様からの呼びかけの言葉です。そして、その律法をユダヤ人たちは神様から委ねられていました。それは、ユダヤ人たちが神様との互いに愛し合う関係の中に生きるためでした。神様の愛を世界中の人々に知らせるためでもありました。ユダヤ人たちは、神様からご自分の民として選ばれた特別な人々でした。そして、その神様の民であることを証しする印が割礼でした。

 しかし、そのユダヤ人たちに対して、パウロは「律法を守っていないなら、割礼には何の意味もない」と言い放ったわけです。律法を守っていないというのは、神様に対して不真実であるということです。割礼に何の意味もないというのは、神様と何の関係もなくなるということです。神様から見捨てられるということです。

 ユダヤ人たちはどう思ったでしょうか。決して納得することができなかったのではないでしょうか。実際に、パウロはユダヤ人たちから反論を受けていたようです。

 パウロは、そのユダヤ人たちの反論を、「彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか」という質問で表現しています。それは、「パウロの言う通りであれば、一部のユダヤ人たちの不真実によって、自分たちが神様から見捨てられる、そうすると、神様の真実が無に帰してしまうではないか、神様は、自分たちがどんなに不真実であったとしても、必ず真実を尽くされる方ではないのか、自分たちを決して見捨てないと言われた神様が、自分たちを見捨てるとすれば、神様は真実な方ではなくなるではないか」ということです。

 どうでしょうか。何とも自分勝手な言い分ではないでしょうか。なぜなら、パウロの言葉に反論するユダヤ人たちは、自分たちの不真実を棚に上げて、自分たちに対する神様の真実だけを求めているからです。ユダヤ人たちは、自分たちとの関係を大切にしていてくださる神様の真実だけを強調して、神様との関係を大切にしない自分たちの不真実を見つめようとしていないということです。ユダヤ人たちは、その自分たちの不真実を指摘したパウロに対して、屁理屈をこねて言い訳をしているに過ぎないということです。

 5節以降を見ると、ユダヤ人たちの屁理屈はどんどんエスカレートしていることが分かります。

 5節の「私たちの不義が神の義を明らかにするのなら」というのは、「自分たちユダヤ人の不義が、神様の義を明らかにする役に立つのなら」ということです。「神様の義が明らかにされるために、自分たちの不義が役に立つのなら、神様が自分たちに対してお怒りになるのはおかしいではないか」ということです。

 7節の「私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら」というのも同じです。「自分の偽りが、神様の真理のために、神様の栄光のために、役立つのなら、自分が罪人として裁かれるのはおかしいではないか」ということです。そして、その屁理屈の最終的なゴールが、「善をもたらすために悪を行おう」ということになります。「自分たちの悪によって、神様の善がもたらされるなら、行うべきは悪ではないか」ということです。何だかとんでもない結論になってしまいました。

 そもそも、パウロは何を言おうとしていたのでしょうか。改めて4節に注目してみたいと思います。

 パウロは、一部のユダヤ人たちの不真実が神様の真実を無にするのかという問題に対して、「決してそんなことはありません」と言い切りました。ユダヤ人たちの不真実によって、神様の真実が無に帰することは、絶対にないということです。神様は、ユダヤ人たちを含めて、すべての人々が偽り者であるとしても、真実な方だということです。そして、その神様の真実は今後も決して変わらないということです。神様は、今後もユダヤ人たちをお見捨てになることがないということです。それがユダヤ人たちに対する約束だということです。真実な神様の約束だということです。

 そして、パウロが言っているのは、だからと言って、その神様の前で、自分の不真実を正当化していいということにはならないないということです。自分の不真実を正当化するために、自分の立場を守るために、屁理屈をこねて、神様の真実を利用してはいけないということです。

 パウロは、神様のことを「真実な方とすべき」だと言いながら、旧約聖書の言葉を引用しました。それは詩篇51篇4節の言葉です。そして、その詩篇51篇は、ユダヤ人たちの偉大な王であるダビデが作った詩篇と考えられています。忠実な部下の妻と不倫をして、子どもを妊娠させて、必死にその事実を隠そうとして、最終的に部下を戦死に追い込んだダビデが、ナタンという預言者から自分の罪を指摘された時に作った詩篇です。そして、それは、悔い改めの詩篇でもあります。

 実は、ダビデは、先に、預言者のナタンを通して、自分の家と王国が「とこしえまでも確かなもの」とされることを、神様から約束されていました。そして、その神様からの約束をいただいた後に、ダビデは不倫の事件を起こしてしまったわけです。部下の妻と不倫をして、嘘をついて、人殺しをするという罪を、神様の前で犯してしまったということです。

 ダビデは、人々の前で、さらには、神様の前でも、自分の罪を隠していました。しかし、預言者のナタンによって、その罪が指摘された時、ダビデは素直に自分の罪を認めました。決して、屁理屈をこねて言い訳をしようとはしませんでした。「神様は、私の家と王国を決して見捨てないと約束してくだいましたよね。神様は真実な方だから、決してその約束を破ったりしませんよね」というような言い訳はしませんでした。ただ、神様の正しさを認め、自分の罪を認めて、神様の赦しを求めました。そして、神様はそのダビデの悔い改めを受け入れられました。

 ダビデは、決して罪を犯さない人ではありませんでした。嘘を言わない人ではありませんでした。ダビデは神様の前で不真実な人でした。しかし、そのダビデが長く王として立つことができたのは、ダビデを選ばれた神様が支えてくださったからです。ダビデを選び、ダビデの家と王国を決して見捨てないと約束された神様ご自身が支えてくださったからです。ダビデにできたことは、不真実な自分に対して、いつも真実でいてくださる神様の前で、自分の罪を正直に認め、神様の赦しをいただくことだけでした。神様の真実に支えられて生きることだけでした。そして、そのダビデの心には安心がありました。

 しかし、そのダビデを誇りとするユダヤ人たちは、パウロから罪を指摘された時、神様の真実の前で悔い改めるのではなくて、逆に、神様の真実を利用して、自分たちの立場を正当化しようとしたということです。そして、そのユダヤ人たちの安心は、音を立てて崩れ落ちました。

 私たちは「外見上のユダヤ人」ではありません。しかし、御子イエス様を信じて、心に「キリストの割礼」を受けて、神様の民とされました。神様との互いに愛し合う関係の中に生きる者とされました。ダビデと同じように、自分が不真実な罪人であることを認めながら、その不真実な罪人の自分を愛していてくださる神様の真実に支えられて生きる者とされました。

 その私たちはどうでしょうか。心にキリストの割礼を受けた者として、不真実な自分の罪を認めて、神様の真実に支えられて生きる者となっているでしょうか。神様の真実の前で、なおも屁理屈をこねていることはないでしょうか。神様の真実を利用して、不真実な自分の立場を正当化しようとしていることはないでしょうか。そして、安心を失っていることはないでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝の中で、イエス様の十字架の前に立たせていただきたいと思います。十字架の前で、自分の罪に気づかされたいと思います。同時に、十字架の前で、罪の赦しの道がいつも開かれていることを覚えたいと思います。そして、だからこそ、十字架の前で、屁理屈をこねる者となるのではなくて、悔い改める者とならせていただきたいと思います。自分の正しさを主張するのでもなく、自分の罪の言い訳をするのでもなく、決して変わることのない十字架の愛と赦しに支えられて生きる者でありたいと思います。

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