礼拝説教から 2020年7月5日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙2章17-29節
  • 説教題:人目に隠れたユダヤ人

 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。(ローマ人への手紙2章17-29節)

0.はじめに

 先週は、ローマ人への手紙2章6-16節から、えこひいきがない神様の裁きについて分かち合いました。

 天に昇られたイエス様がもう一度来られて、神様の最終的な裁きが行われる時、私たちは、この世界でえこひいきの理由となるようなものと関係なく、身にまとわりついている一切のものを剥ぎ取られた状態で、神様の前に立つことになります。神様は、人々が注目するような部分ではなく、私たちの隠された事柄を見て裁かれるということです。そして、それは、罪人である私たちには恐ろしいことです。しかし、その裁きは、キリスト・イエスによってなされます。私たちの罪を背負って、十字架の上で神様の裁きを受けてくださったイエス様が、私たちと神様との間に立ってくださいます。イエス様は、ご自分を救い主として信じ受け入れるすべての人々に、赦された者として、神様の裁きの前に立つ道を開いてくださるということです。そして、毎週日曜日の礼拝は、十字架にかかられたイエス様の前で、自分の罪を告白し、その罪の赦された者として、イエス様がもう一度来られて、神様の最終的な裁きが行われる日に向かって、出発する時だと言えるでしょう。

 今日は、その次の2章17節以降の部分を見ながら、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.

 先週の本文の後半で、パウロは、神様には「えこひいきがない」ことを宣言しながら、律法を話題に出しました。パウロは、ユダヤ人たちが、神様の教えである律法を持っていて、最終的な裁きの時にも、神様から特別扱いをしてもらえると信じていましたが、神様の前では何の関係もないことを説明していました。律法を持っているからと言って、それが、神様からえこひいきをしてもらえる理由にはならないということです。なぜなら、律法は、持っていることにではなくて、行うことに意味があるからだということです。そして、今日の本文である17節以降には、その律法を行わないユダヤ人たちの姿が指摘されています。

 どうでしょうか。私は、今日の本文を見て、「これは自分のことではないか」ということを思いました。「ユダヤ人」を「クリスチャン」として、「律法」を「聖書」としたら、自分にそのまま当てはまるじゃないかと思いました。

 パウロは、「他人をさばく者よ」と呼びかけた後、「あなたに弁解の余地はありません」と言っていました。「他人をさばく者」というのは、「あなたのことですよ」と言っていたわけです。今日の本文の中で、「他人をさばく者」というのはユダヤ人たちのことであることが明らかにされますが、パウロは、ただ単に、ユダヤ人たちを相手にしていたのではなくて、ローマの教会の一人一人、時代や場所を越えて、パウロの手紙を読む一人一人に対して、「あなたのことですよ」と呼びかけていたということです。そして、同じように、今日の本文の中で、ユダヤ人たちについて指摘されていることもまた、現在の私たちを含めて、パウロの手紙を読む一人一人に対して語られているということです。

 私たちは、神様の言葉である聖書によって、神様の御心を知ることができるでしょう。聖書から教えられて、大切なことを弁えることができるでしょう。あるいは、聖書の中にある知識と真理によって、私たちは、「目の見えない人の案内人」、「闇の中にいる者の光」、「愚かな者の導き手」、「幼子の教師」となることができるのかも知れません。

 しかし、どうでしょうか。私たちは、他人を教えながら、自分を教えないということには、なっていないでしょうか。「盗むな」と説きながら、盗む、「姦淫するな」と言いながら、姦淫する、偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るということには、なっていないでしょうか。「神様を恐れなさい」と言いながら、自分が中心になっている、「イエス様に委ねたらいいんだよ」と言いながら、自分の問題は自分で解決しているようなことは、ないでしょうか。

 クリスチャンとして、聖書から教えられて、大切なことを弁えるというのは、どういうことでしょうか。それは、反対に、自分こそが、「目の見えない人」、「闇の中にいる者」、「愚かな者」、「幼子」であることに気づかされることではないでしょうか。他の人々を「目の見えない人」、「闇の中にいる者」、「愚かな者」、「幼子」として、見下して、教えてやろうとすることではなくて、自分こそが、「目の見えない人」、「闇の中にいる者」、「愚かな者」、「幼子」でることを弁え続けることではないでしょうか。そして、その自分を愛して、十字架の上で、自分の代わりに裁きを受けてくださったイエス様に生かされていることを覚えながら、謙遜に歩むことではないでしょうか。あるいは、毎週日曜日の礼拝に来て、「この話を誰々さんに聞かせたらなあかんのやけどなぁ」とか、「誰々さん、ちゃんと聞いときいや」などと思っているとすれば、それは、自分こそが、神様の御声を聞いていないということになるのかも知れません。

 パウロがユダヤ人たちのことについて語っているのは、「あなた」に対してです。それは、パウロの手紙を受け取ったローマの教会の一人一人のことであり、現在の私たちをも含めて、時代や場所を越えた所で、パウロの手紙を読んでいる一人一人のことです。パウロは、自分の手紙を読む一人一人に対して呼びかけているということです。「あなたはどうなのか」と問いかけているということです。

 他の人は関係ありません。「私」はどうでしょうか。一人の礼拝者として、パウロの呼びかけに、神様ご自身の呼びかけに、応答したいと思います。

2.

 パウロは、律法から割礼に話題を移しました。パウロによれば、律法を行うなら、割礼には価値があるが、律法の違反者になるなら、割礼が無割礼になるのだということです。律法に違反しているなら、割礼を受けていても、受けていないのと同じだということです。

 ユダヤ人たちにとって、神様の言葉である律法を持っていることは、自分たちが神様の民とされていることを証しするものでした。ユダヤ人たちは、律法を持っていることによって、自分たちが、神様から特別に愛されている、特別な民族であることを確信していまいた。だからこそ、律法を頼みとしていました。

 そして、その律法を持っていることと同じように、割礼もまた、自分たちが神様の民とされていることを証しする印でした。男性の性器の皮を切り取る割礼は、神様の民とされていることを証しする恵みの印でした。しかし、その恵みの印であるはずの割礼が問題になっているわけです。

 パウロはユダヤ人たちが律法を行っていないと言っています。そして、割礼を受けていても、律法を行っていなければ、何の意味もないと言っています。それどころか、割礼を受けていない人々でも、律法の規定を守っているなら、割礼を受けているのと同じだと言っているわけです。さらには、「からだは無割礼でも律法を守る人」によって、律法に違反しているユダヤ人たちが裁かれるとまで言っています。もちろん、ここで、パウロが「からだは無割礼でも律法を守る人」と言っているのは、ユダヤ人たちから見た外国人たちです。

 どうでしょうか。ユダヤ人たちは、パウロが言うように、律法を行っていなかったのでしょうか。

 実際には、ユダヤ人たちは律法をとても大切にしていました。律法を行うことに、こだわっていました。そして、ユダヤ人たちが割礼にこだわっていたのも、割礼が律法の中で命じられていたからだと言えるでしょう。ユダヤ人たちは律法を大切にしていて、自分たちが律法を守っていると思っていました。しかし、パウロは、そのユダヤ人たちに対して、律法を行っていないと指摘しているわけです。

 どういうことなのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが律法にこだわりながら、その心が神様の前で頑なになっていたということではないでしょうか。神様の御心から離れていたということではないでしょうか。

 パウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではないと言っています。「外見上のユダヤ人」というのは、ユダヤ人夫婦の家庭に生まれて体に割礼を受けた人のことです。しかし、そのような外見上のユダヤ人が、そのままユダヤ人になるのではないということです。同じように、「外見上のからだの割礼」も、そのまま割礼となるわけではないということです。そうではなくて、「人目に隠れたユダヤ人」こそが、真のユダヤ人なのであり、「御霊による心の割礼」こそが、真の割礼なのだということです。大切なことは、「人目に隠れたユダヤ人」になることであり、「御霊による心の割礼」を受けるということです。そして、それは、ただ単に、ユダヤ人たちの問題ではなくて、パウロの手紙を読んでいるローマの教会の一人一人の問題であり、現在の私たちをも含めて、時代や場所を越えて、パウロの手紙を読む一人一人の問題だということです。あるいは、現在の私たちがクリスチャンになるというのは、「人目に隠れたユダヤ人」になることであり、「御霊による心の割礼」を受けることだと言ってもいいのかも知れません。

 それでは、「人目に隠れたユダヤ人」になるというのは、どういうことでしょうか。「御霊による心の割礼」を受けるというのは、どういうことでしょうか。それは、他の人々に対して、体の割礼を示して、自らユダヤ人であると名乗ることではありません。あるいは、律法を文字通りに行うことによって、自分の受けた割礼が本物であることを示すことでもありません。そうではなくて、人間の目には隠された所で、まさに神様との関係の中で、神様ご自身からユダヤ人として認められることです。そして、その神様から認められた印が、割礼として、聖霊によって心に刻まれることです。神様に対して頑なな心の皮が切り取られて、神様と共に新しく生きる者にされることです。そして、それは、神様の言葉を文字通りに行うことによってではなくて、神様の言葉を通して、自分の罪に気づき、その罪のために、十字架にかかって死んで復活してくださったイエス様を、救い主として信じて受け入れることによってです。ちなみに、パウロは、コロサイという教会に宛てた手紙の中では、このことを「キリストの割礼」と表現しています。

 大切なことは何でしょうか。それは、聖霊によって、心にキリストの割礼を受けることです。イエス様の前で頑なな心が切り取られることです。そして、イエス様を心の王座にお迎えして、イエス様ご自身に導かれ、支えられて歩むことです。自分の正しさを主張したり、自分を誇ったりするのではなくて、イエス様の正しさによって生かされていることを喜び、イエス様だけを誇りとして生きることです。

 私たちはどうでしょうか。聖霊によって、心にキリストの割礼が刻まれているでしょうか。「人目に隠れたユダヤ人」になっているでしょうか。頑なな心の皮が切り取られて、イエス様の愛とご支配を受け入れる者となっているでしょうか。あるいは、外見上は立派なクリスチャンのようであっても、イエス様の前で心を頑なにしていることはないでしょうか。

 来週は、礼拝の中で、洗礼式を執り行います。洗礼を受ける姉妹をここまで導いてくださった神様に感謝したいと思います。姉妹が同じ神様の家族に加えられることを喜びたいと思います。そして、洗礼式を通して、私たちにも、キリストの割礼が心に刻まれていることを覚えたいと思います。決して消えることのないキリストの割礼が心に刻まれていることを覚えながら、私たちもまた、イエス様が自分にしてくださった恵みを喜び、イエス様だけを誇りとし、イエス様と共に歩む者とされることを、心から願います。

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