2024年4月21日聖日礼拝

動画(42分22秒)

聖書 使徒の働き1章3節〜11節
説教 「天に上げられたイエス」
説教者 高橋博師


今月の聖句

使徒の働き26章18節

それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。


今週の聖句

ヘブル人への手紙12章2節

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。


創世記からの黙想 創世記16章

信仰の父と呼ばれたアブラハムも大きな失敗を犯しています。アブラハムの人生2度目の失敗の事件です。一度目は12章、飢饉でエジプトに滞在したとき、妻のサラを妹と偽って、神のしもべとして証しにならない事件を起こしています。二度目の事件はアブラハムは85歳、サラは75歳になった時のことです。16章はアブラハムだけでなく、サラ、ハガルの弱さがさらけ出されている箇所です。「私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」(15章2節)アブラハムは信仰と不信仰の戦いの中で生きています。85歳と高齢になって父となる希望の灯火が消されようとしている時のアブラハムの質問です。神様は「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」と語られアブラハムは主を信じ、それが彼の義と認められました。この時押し寄せた不安の波は引いて行きましたが、次に襲いくる不安の波は妻のサラから出てきました。「主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入り下さい。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」(2節)妻サラからこの不信仰な世的な提案が出ました。この提案を受けたアブラハムは何をすべきでしょうか。サラの提案の時に、一瞬でも、主よ、あなた様の御心はいかがでしょうか、と祈るべきでした。サラ、この提案はいいが、一度一緒に祈って神様のみこころを伺いましょうと尋ねるべきでした。これは、私たちに問いかけられている日々のテーマであります。アブラハムはサラの提案を祈ることなく受け入れ、ハガルの天幕にさっさと入りハガルはイシュマエルをみごもります。みごもったハガルの態度は大きくなり女主人サラを軽く見るようになりました。家庭内でハガルとサラに大きなバトルが発生しました。サラはハガルをいじめます。サラのいじめに耐えきれずにハガルは逃亡します。アブラハムは「あなたの好きなようにしなさい」と無責任な対応です。今日もイシュマエルの子孫と呼ばれるアラブ人とアブラハムの子孫のイスラエル人との間に大きな戦いが起こっています。祝福をもたらすはずのアブラハムが不信仰によって苦しみをもたらしています。アブラハムは86歳から99歳になるまでの13年間、家庭の問題の中で祈りを悔い改めの時を過ごしています。信仰が惰性にならず、瞬間、瞬間、主の御声を聞く信仰に生きましょう。シャローム。

2024年4月14日聖日礼拝

動画(31分38秒)

聖書 使徒の働き10章1節〜16節
説教 「神様はあなたをどう見ているのか」
説教者 タン・ショーン師


今月の聖句

使徒の働き26章18節

それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。


今週の聖句

コリント人への手紙第二5章17節

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。


創世記からの黙想 創世記15章

創世記15章からの黙想です。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(6節)この聖句はローマ書4章3節、ガラテヤ書3章6節に引用され、信仰義認の鍵となるみ言葉です。信仰の父と呼ばれるアブラハムは大きな問題を抱えていました。このカナンの地、約束の地を主は与えると約束してくださいましたがまだ子どもが与えられていません。12章でハランを出発した時は75才でした。それから10年の歳月が流れますがまだ跡継ぎの子は与えられていません。こんな問題の中で、あなたの子孫は空の星の様になるとの約束に「主を信じます」と信仰の告白をしています。ここ告白の後「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である。」(7節)と主は約束をしています。約束の印として神様はアブラハムと契約を結んでいます。9節では、雌牛、雌やぎ、雄羊を真っ二つに切り裂き、向かい合わせに並べています。17節では煙の立つかまどと、燃えているたいまつが切り裂かれているものの間を通り過ぎています。18節で、その日、主はアブラムとこの地を与える契約を結び宣言されました。これは当時の契約を結ぶ方法でした。今日の保険の契約であれば契約文書に双方が調印して証書を保管することです。当時は、雌牛、雌やぎ、雄羊を真っ二つに切り裂いて向かい会わせ、血の流れている動物の間を契約を結ぶ二人が歩きました。わたしたちは確かにこの契約を結びました。違反した場合には、私のからだがこのように割かれても構いませんという、契約でした。本来なら、この契約に、神様とアブラハムが動物の間を歩かなければなりませんでした。約束を守れなかった時アブラハムは切り裂かれなければなりません。しかしその間を歩いたのは、煙の立つかまどと、燃えているたいまつでした。煙の立つかまどは神様を現し、燃えているたいまつは御子イエス様を現しています。アブラハムに変わってイエス様が歩いています。アブラハムも人類もまた私たちも神様の前に忠実に約束を果たしていません。罪を犯した私たちは切り裂かれなければなりません。イエス様が十字架でそのからだを裂かれ、私たちに代わって血潮を流してくださって、神様と人類の救いの約束を守っていてくださいました。「その日、主はアブラハムと契約を結んで仰せられた。わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」(18節)信じる者に与えられる大きな恵みを確信して信仰の道を歩みましょう。シャローム。