あなたの御名に 栄光を帰してください。 あなたの恵みとまことのゆえに

静まりの時 詩篇115・1~18〔この世の権威と神の主権〕
日付:2024年06月14日(金)

1 私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
 ただあなたの御名に 栄光を帰してください。
 あなたの恵みとまことのゆえに。

 聖書を読んでいくと、意味が分かったような分からないような言葉が出てきます。この「栄光を帰(き)す」という言葉はその一つではないかと思います。「帰す」というのは、広辞苑によると、「帰する」という言葉と同じとあり、「帰する」は自動詞としては「1,最終的にある一つのところにおちつく。~という結果になる。2,帰順する。帰依する」、他動詞としては「押し付ける。負わせる」とありました。いずれもいまいちしっくりくる感じがしないのですが。
 新共同訳では「あなたの御名こそ、栄え輝きますように」、共同訳2018では「あなたの名にこそ、栄光を与えてください」。少し分かったようなきがします。

 続く「あなたの恵みとまことのゆえに」は、神さまの恵みとまことの「ゆえに」ですから、神さまが恵み深く、真実なお方であるので、それゆえに、神さまの御名に、栄光を帰してください、与えて下さい、となります。
 新共同訳では「あなたの慈しみとまことによって」とあり、「よって」は、それが根拠となって、とも読めますが、御名に栄光が栄え輝くこと、そのものの原動力が、この神さまの慈しみとまことである、とも読めます。
 共同訳2018では「あなたの慈しみとまことのために」となっています。「ために」とは目的を表していると考えられますから、神さまの御名に栄光を与える、その目的が、神さまの慈しみとまことにある。神さまの御名のご栄光によって、私たちは、神さまの慈しみとまことを知ることができる、と読むことができるでしょうか。
 栄光とは、旧約聖書の言葉、ヘブル語では「重たい」という単語が使われています。重たい、すなわち存在感のことです。神さまは私たちの目には見えないのですが、しかし確かにおられる、ご存在くださっている。それはどのようにして知ることができるのか。それは神さまの「恵み(慈しみ)とまこと」によって知ることができる。あるいは、神さまの恵み、慈しみとまことを知ることによって、神さまの存在感を確かにすることができる。また神さまの存在感が確かにされるところにこそ、神さまの恵み、慈しみとまことが確かにされていく。

 神さまを知る、神さまがおられることが確かにされる、というと、驚くばかりの奇跡が行われる、とか、人知を超えた不思議なことが起こる、とか、いわゆる霊的な現象が出現するといったことを考えがちですが、聖書は、「恵み」や「慈しみ」、そして「まこと」が現れるところで、神さまのご存在が明らかにされると語るのだと思います。
 恵み、慈しみ。すなわち「愛」です。まこと、真実、すなわち「義」です。愛と義が明らかにされるところに、神さまご自身が明らかにされていく。神さまが確かに明らかにされているとするならば、そこに愛と義が立ち現れている。そのように言うこともできるのだと思います。

14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
(ヨハネ1・14~18)

 イエスさまは、恵みとまことに満ちておられます。愛と義はイエスさまの十字架において表されました。イエスさまを見れば、そこに神さまを見ることができる、と聖書は語ります。イエスさまは神ご自身です。私たちが、神を見る、といった場合、ことごとくイエスさまを見る、ということによってそれは実現するのです。そしてそれ以外の「見方」は、神を見たことにならない、というのだと思います。それ以外の見方は結局「口があっても語れず 目があっても見えない。耳があっても聞こえず 鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず 足があっても歩けない。 喉があっても声をたてることができない」偶像に向かうことになるのだと思います。

8 これを造る者も
 信頼する者もみな これと同じ。

 恵みとまことに満ちておられるイエスさまにおいて、神さまを見ることをしないと、偶像礼拝に陥ってしまうのですが、それはまた、その者自身も、偶像のようになってしまう。五体満足でありながらも、能動的な人間として生きることができなくなってしまう。まことに自由な人間として生きられない。
 まことに自由な人間として生きるために、私たちは、主に信頼したいと願います。

9 イスラエルよ 主に信頼せよ。
 主こそ助け また盾。

 NHKのハートネットTVで「あなたとつながりたい ~ALS ある家族の記録~」(2024年6月11日初回放送)というのを紹介いただいて視聴しました。病いの中にあって懸命に自分のいのちに生きようとされているご家族の姿、自由に情報発信できないことの苦しみとそれを打開するために果敢に挑戦される姿が語られていました。十分に理解できていないかもしれませんが、科学技術の進歩とそれを気軽に享受できる社会のあり方、その前進を祈りたいと思います。私たちの教会にも同じ病いの中にあって、懸命に生きる方がおられ、私たちは日々励まされています。まことの自由とはなんであるのかを考えさせられています。

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1 私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
 ただあなたの御名に 栄光を帰してください。
 あなたの恵みとまことのゆえに。
2 なぜ 国々は言うのか。
 「彼らの神は いったいどこにいるのか」と。
3 私たちの神は 天におられ
 その望むところをことごとく行われる。
4 彼らの偶像は銀や金。
 人の手のわざにすぎない。
5 口があっても語れず
 目があっても見えない。
6 耳があっても聞こえず
 鼻があっても嗅げない。
7 手があってもさわれず
 足があっても歩けない。
 喉があっても声をたてることができない。
8 これを造る者も
 信頼する者もみな これと同じ。
9 イスラエルよ 主に信頼せよ。
 主こそ助け また盾。
10 アロンの家よ 主に信頼せよ。
 主こそ助け また盾。
11 主を恐れる者たちよ 主に信頼せよ。
 主こそ助け また盾。
12 主は私たちをみこころに留め
 祝福してくださる。
 イスラエルの家を祝福し
 アロンの家を祝福し
13 主を恐れる者を祝福してくださる。
 小さな者も 大いなる者も。
14 主があなたがたを増やしてくださるように。
 あなたがたと あなたがたの子孫とを。
15 あなたがたが祝福されるように。
 天と地を造られた方 主によって。
16 天は 主の天。
 地は 主が人の子らに与えられた。
17 死人は主をほめたたえることがない。
 沈黙へ下る者たちも。
18 しかし 私たちは主をほめたたえる。
 今よりとこしえに至るまで。
 ハレルヤ。


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