いつも主にあって喜びなさい

静まりの時 ピリピ4・4~8〔永遠の思い〕

日付:2024年09月09日(月)

4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

5 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。

6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

8 最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。

命令の言葉が続いています。

「いつも主にあって喜びなさい」。喜ぶこと。何をするにしても喜びがなければ何の意味があるのか。藤木先生はその著『神の風景』のなかで次のように書いておられます。

どれほど深い信仰でも、そこに喜びがなければおかしいと考えるべきでしょう。

どれほど熱心な奉仕でも、そこに喜びがなけれぱおかしいと考えるべきでしょう。

どれほど正しい生活でも、そこに喜びがなけれぱやはりおかしいと考えるべきでしょう。

喜びとは、ことの真偽を判別する大切な基準です。

喜びのない深さは自己満足している深刻さなのです。

喜びのない熱心さは報いを求める不平なのです。

喜びのない正しさも他を裁く誇りに過ぎないのです。

いずれにしても喜びのないものは、全て未熟であると考えて間違いはありません。

(藤木正三、『神の風景)

ただ喜びなさい、と命じられても喜びが生まれるわけではありません。喜びは心の内から自然と湧き上がってくるものだからです。では何もすることがないのかと言えばそうとも言えません。喜ぶべきことを数えてみることが大切だと思います。一日の終わりに、あるいは新しい日を迎えた朝、その前日を思い返しつつ、感謝すべてきこと、喜ぶべきことを思い起こしてみるのは良いことです。すると、自然と喜びが湧き上がってきます。

あるいはその時々、その瞬間瞬間を、味わってみる、ということも良いことだと思います。

 「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい」。

私たちの心は寛容なのでしょうか。寛容、すなわち「心が寛大で、よく人を受けいれること。過失をとがめだてせず、人を許すこと」。そのような心を持っているのでしょうか。パウロは、ピリピの人たちに向かって、そのように語りかけました。「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」(1・27)と手紙で言われなければならない状態であったと想像すると、決して彼らが寛容であったとは言えなかったのかもしれません。しかしパウロはピリピの人たちに向かって、あなたがたの寛容な心を、と語りかけたのです。

お世辞ではないと思います。キリストにある者は、すべて、寛容な心をいただいているはずなのだと思います。ただそれを「すべての人に知られるように」出来ていない、ということが問題なのだと思います。何が寛容な心をすべての人に知られることを阻んでいるのか。それが自分自身の罪、あるいは自分自身なのではないか。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。

神を知る、のではなく、神に知っていただく。自分自身の願い事、心のうちにある願い、希望を知っていただく。自分が何を望んでいるのかを、神さまに知っていただく。

神さまは全知全能であるお方ですから、何でも知っておられるはずです。私の内にあるものを神さまはすべてご存じです。にもかかわらず、知っていただきなさい、とパウロは語りました。自分の内なる願いが、自分だけものではなく、神に知られているものとなる。まるで心のうちにある願いのグレードがアップするような感じです。

祈りと願い。祈りというのは、願いのことではないか。しかしパウロは「祈り」と「願い」を分けて表記します。では「願い」ではない「祈り」とはいったいなんであるのか。

私たちの祈りを点検してみましょう。あまりにも「~してください」の祈りが多いのではないか。

願いではない祈り。たとえば感謝。たとえば神さまはどのようなお方であるのか。喜びや悲しみ、苦しみなどなど。神さまに知っていただくことは山ほどあるように思えてきます。その一つひとつを、神さまに向かって祈る。

「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。

神さまに知られる、ということが、私の内に「平安」をもたらす。そして、その平安が私の「心と思い」を守ってくれる。キリスト・イエスにあって守ってくれる。

私たちの心を思いは、守られなければならないもの、なのです。心や思いは傷つきやすいものなのです。傷つきやすい心、思いが、むき出しで放置されているならば、誰しも生きていくことができません。どうすれば守られるのか。神さまの平安が守ってくれる。しかも神さまの平安は、すべての理解を超えている。理解を超えているので、この平安がどのようなものであるのかを説明することができません。しかし確かに与えられる。それが神さまの平安である。その平安に、私の心、思いが守られる。

心と思いが守られているならば、そこにまた喜びが生まれてくる。またすでに与えられている寛容な心を、人びとに知らせることも可能となる。

「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」

心を留める。注意が散漫では不可能です。注視していく。深く目を留める。心を留める。意識を集中する。何に心を留めるのか。

・すべて真実なこと

・すべて尊ぶべきこと

・すべて正しいこと

・すべて清いこと

・すべて愛すべきこと

・すべて評判の良いこと

・何か徳とされることや称賛に値すること

この一つひとつを訪ね求めて、思いめぐらせる必要があると思いますが、いくつかの訳を比較するのが良いことだと思います。

このようなことに、心を留める。ギリシャ語では、ロギゾマイ、という言葉で、「数える。計算に入れる」という意味の言葉です。

何をするにも、これらを勘定に入れて行動する。語る。それは、神経質になって律法的に自らを吟味するということではないように思います。

いつも喜んでいる、感謝してる。そのようであるならば、おのずとこれらに心を配ることができるのだと思います。

「その反対の場合を考えて見れば分かるのです。いつも自分に不平があって、なんでも不満で腹ばかり立てていたらとてもこれらに心を配る余裕などありえないでありましょう。」

(竹森満佐一、『ピリピ書』より)


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